海鳴りに会いに
「やい、老いぼれ、私に酒を酌んでくれるな、歳が離れてしまえば立場もぐらつくか?このしこたまアルコール原人めが。」
僕は余分に酒を注がれるのがめっぽう苦手である。良き塩梅は自身で決めてこそ良いとする。向かいに座るが畜生であれ、聖人君子であれ変わりはない。ルールは元来、平等を叫ぶ対価だ。
時と場合によってしまっては、人々に思想や価値観など持たす必要がなくなってしまう。
危惧せよ、現代人。
老いぼれはもうダメだ。
錆びた釘よろしく時代から置いていけ、構うことはない。
けれども、この老いぼれ、洋画家である。
ずいぶん風情のある肩書きを持って、砂漠のように渇いた笑顔をしている。ただ瞳は妙に凛として、枯れた冬のような髭を揺らしている。
ずいぶんと苦楽を歩んだであろう魂からは、まだ性懲りもない夢が微かに見えているようだ。
辺りを見渡しても、こんな不意をつくような血の通った言葉を言えるであろう人が少ないのも事実だ。僕は酒の席以外で、この人物から色々なことを学んできた。
僕はこの老いぼれの研究室で、友人を幾人か作った。身体を交わしたあの娘も、老いぼれの近くで出会った。いささか疑り深い人望だ。
彼は言う。
「お前は血を吐いてみたらいい。打ち負かされておけ、歳をとるにつれ、風邪を治すのも困難になる。今のうちだ。」
あの娘も、この老いぼれも言うように、僕は妙に悪運強い。許されてしまう。
許さないと決めた人もいたであろうが、僕は骨を折るような痛みも、心臓が張り裂けた経験もない。やけに効く鼻で、逃げ道を見つけてきたのだろう。辻褄合わせに必死な僕を、僕だけが見つけてきたわけでないのに、どうにも腰をおろす場所がある。思ったより優しい人は少なくない。
この老いぼれが、そうであるように。
薄目を、開けて僕は僕でいる。
せめてもの僕の誠意で、日々をどうにか僕で生きていく。車輪のように、続けている。
この老いぼれが、そうであるように。
荒野と曇天
声明文。
つらつら歩かず、傘はさす。
凛と姿勢をたて、世迷言など言わぬ。
煙草も酒も贅沢せず、序でばかりに嗜もう。
野良な猫が居たらば、餌をやる。
釣った魚は粗末にせぬ。
乾燥を忌み嫌い、清潔極まりない部屋にす。
好きな「んと」はきちんと!
私はかくのごとき日々を全うす。
全て逆さまを歩く私は、何だ。
物の怪であるならば、納得するのは私か、天か。
部屋には、amiinaというグループの音楽が流れている。アイスランド出身らしい。気分が下降気味の時に流すと、もう少し静寂を破ってよ、と言いたくなる程、沈黙と静寂に質量を与え、甘美とはまた違う心地よさがある。
私はこんな音楽を聴いたり、好んだりするのに、何故このような暮らしっぷりなのか。
私の暮らしは音楽で彩られてはいないのか。ずいぶんと昔から音楽を嗜み、休日は自転車漕いで中古レコード屋に赴き、胡散臭い店主に聞き齧った知識をひけらかされてきたではないか。
”ヨーコが居た病室にはな、ジョージとリンゴの写真は飾られてたが、ポールのは無かったんだぜ?”
だから何だと言うのだ!
私の青春は大きく閉じこもった地下室のような場所に監禁され、遂に私に会う事は無かった、と私は仮定している。青春が私に会う時は、青春がとられた人質を見捨てるに等しい。私も青春が下したその選択を否定しない。私は青春の人質が解放されたことを喜び、それを私の青春としてきた。
甘酸っぱい桃色破廉恥な音を立てず、ただひたすらに音楽や活字を漁り、掘らなくていい穴を掘り、潜らなくていい池に潜っていた。
だからさ、なんて理屈はない。
私はたぶん、素敵な青春を謳歌し、汗と友情を頼りに秒針を廻してきたところで、きっと現在に行き着いたであろう。それを今更巻き戻そうなどとは思わない。後悔こそが人生である。
ただ本当の後悔は、病のように私を崩し、また形成しているのだ。細胞に絡みついたら最後、荷物となって分裂と再生を繰り返す。
だから人生なのだ、後悔は。
それでは、また明日。後悔しよう。
あの雲よりも緩やかに
その時の僕は、さながら迷子のように沈黙をどう転がしてみようかと考えていた。
ついぞ答えを待たずして、君は布団を纏い明日に出かけるご様子だった。致し方なく、術の無かった僕はビートルズのIn My Lifeを頭に浮かべ、眠りに就こうとした。少し枕を多く使われていたのを咎めたかったが、それもまた致し方なかった。
どうして他の人とも寝るの
誰とも寝ている気がしないんだよ
文章に起こせば、甚大な欠陥があるような自分の返しに驚く。それがまた素直に最初に出た言葉だから取り返しもつかない。命在るだけ有難いと毎晩夜空に祈りを捧げ、半径10m以内の全てにこうべを垂れ、自身の忌まわしさに懺悔するべき業である。僕は道徳をどこで握り締め忘れたか。
翌日は、笑みひとつ溢さずに君が先に部屋を後にした。しがない休日も、始まり次第である。
君が買って来たミルで珈琲豆を挽いた。
時間がモールス信号の様に途切れ、記憶に残らない瞬間が多々あったので、何度か途中で豆を取り出そうとした。ああ、まだあったかと挽き直し、ああ、終わったか、ああ、まだあったのか、の繰り返しで、壊れたカセットさながらだった。
何をしていたか、と誰に問われても困り果てるその日の夜に、君からの連絡があった。
箱の中身は何でしょう、であるならば僕はずいぶん怯えた事だろう。
勘が良いというより、僕の性分を熟知した君は、思い直したかのように電話をかけてきた。
なかなか読むに至らないであろうという、その予想はまさしく予想通りである。
誰にも相手されなくなってみたらいいと思ったけど、あなたは悪運強そうで悔しいから、また時間あるときに連絡する
でもまた悔しい
滝にでも打たれろ
風邪を引くので嫌だ
なるべく伝わらないように笑って、僕は答えた。
あっそ
電話が切れた。そうであったらいいと、笑った君を浮かべた。
だらしのない二人は、ちゃんとだらしのないまま、短く繋がっていた。
例年に比べて暑いの例年がない
君のアパートと僕のアパートは遠くない。
京浜東北を跨げば、短編を読みきる間も無く、着いてしまえる。四階建ての老いぼれた一室に通った。だいたい洒落たロックンロールなTシャツで出迎えてくれた。
今日は向こうに鯨のような雲が泳いでいた、と告げれば、てんで愛想のない声で「気持ち良さそうだった?」と応えた。豆茶を淹れながら、今日の話をすれば、小粋な物言いで返す。
活字にすれば移ろいある暮らしも、その時はずいぶん緩やかに流れ、色合いは足りない様子だった。本棚は永く手をつけてない様子で、文庫本の並びも確かに覚えている。
やけに太宰が多かった。書きながら思い出した、家にある「グッド・バイ」は君の物だった。
それらを除けば、君に覚えている事は多くない。学校の喫煙所で、教授と仲違いをして不貞腐れていた君と初めて話したこと。
乙女座なこと、華奢な割によく食べたこと、花の名前を幾つか教えてくれたこと。
駅までの帰りに見つけられる花の名前は全て教わったものだった。
今にして思えば、君といた数ヶ月は何て事のない時間の量だ。朝、着替えを済ませようとして腕に歯型が残っていたが、仕事から帰る頃には消えていたそれと似て。
それを懐かしむ事も、感慨にふける事もそれほどない。今どうしているのかも、浮かべない。
それでも記憶は少し曖昧なまま、夜につねられると過るのは、僕が相も変わらずその時のままだからだ。
「グッド・バイ」読んだよ。
珍道中と名付ければ他愛ないその物語も、君がいなければ出会わなかったかもしれない。
いくつか歳をとり、きっとあなたも同じようにとったことでしょう。
便りのない場所に、僕は毎晩手紙を書いて、それを思い出としています。
そんな暮らしも悪くないよ、と
あの頃と同じように、てんで愛想のない声で君が応答してくれれば幸いだ。
はじめに
絵画の事。それより大雑把に云えば、芸術の事。
あなたはどんな時に涙を流すだろうか、どんな時に全速力で走るだろうか。
それら全てを説明もされず、解読もせず、ただひとしきりに知りたいままで終わった人との交流を僕はたまに浮かべる。
興味のない人や事柄を見つめる事は容易くて、鏡のように僕も雑多の中の、小石一粒程の個性。
けれど、どんなに有り体でも、日々は手作りだ。
後悔も正しさも、紛いなりに作ってきた。
人それぞれのいろいろが、僕にもある。
逞しい絵が好きだから、逞しくならなきゃ。
絵画が好きなの、言葉がないから。私もあんまり会話で自分を知って欲しいと思わないし。
君が言っていた言葉だった。
僕は声や言葉で人を覚える。上手い下手、大小差異は関係なく。心に残る声色や言葉が多い人ほど僕の中で大事な人だ。
その子はよく笑った。快活てほど高くは上げないが、空間にストンと落ちるような笑い方だった。
けれども、名前を忘れるのが良くない癖。
アパートの拙い壁いっぱいに、君の言葉が貼り付いていたら、僕はどれだけ覚えていられるだろう。過ごした場所で、過ごした場所全部が君を覚えていられたら助かるのに。
テーブルには温度、シーツには匂い、浮かべたらキリがないほど気味の悪い思考だから割愛する。
だから絵画を描いてみるべき、なのか。
僕の芸術は、君かもしれない。
もういない君が芸術になる。
鏡のように僕もあなたの中の小石一粒程の時間だ。逞しいよ、僕の中のあなたは、寂しさと比例するように。強く。
どれだけ有り体でも、時間は手作りだ。
誰にも知られないまま。
人それぞれの、いろいろは、強く。