folkbowl’s blog

秒針と群青と身体

ロックンロール

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鵬程万里。

ついぞ哀しみや切なさも、私と共にはるばる現在までやって来た。愛着の湧かないそれは、古い友人より他ならぬ、恩人とも同胞とも言える。

ずっと開く事のなかった雨傘、また名演の影で出番を待ち続けた曲目、或いは弾かれなかった弦のよう。近く在れど、触れないそれを

人は後悔と呼んだりする。


水溜りのように、私の知らない瞬間瞬間に、後悔は目に見える場所に落ちていたのだ。

ぐるりと廻ってもどこから後悔を招いたかは、定かではない。というより心当たりがあり過ぎて、全てがそうともいえる。

けんけんぱ けんぱ けんぱ けんけんぱ

くらいにはリズミカルに落としてきた失態。

反省はないのか、今すべきだ。

だが、今したところで、いやしない理由にはならないだろう、君のおかげで自問自答に歯止めが効かなくなった。どうしてくれる。


今更、私はあの娘の乳房に用はないし、感覚もきしょい位に神経と細胞が記憶と記録を残してくれている。何故か靴下を勢い良く飛ばすのが上手なところも、鮮やかに蘇る。

只、随分と大きく影が残ったから、踏んだり追いかけているだけだ。

自分だけで決着つけないと、何だかこれからが詰まらなく、大事なものも見つからなそうなだけだ。強がりではない、弱さをあるがまま見つめただけである。偉そうにまあ。


私が芸術家だったなら

きっと通過点に過ぎないと踏ん張る筈だ。

ここで私が私を騙し通し、手頃な幸せと、度数の高いアルコールで忘れようものなら、私は私の傑作には出会えないだろう。

漱石は、”それから”の後に”こころ”を書いた。

ゴッホはひまわりの後に星月夜を描いた。

連ねれば幾つも幾つも浮かぶ。

私はそんな大層な人ではないが、せめて足掻けるものは足掻きたい。

あの娘と出来なくなった約束は、胸のうちの自分とすべきなんだ。傑作を待ち侘びるように、このすべからくどうしようもない日々を歩こう。


応えが知りたいなら、聴きたいなら

応えたいなら

生きてみるべきだと思わんかね、同胞、恩人よ。